2011年12月19日月曜日

26今どき破天荒な男たちの物語

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今どき破天荒な男たちの物語の1 


 この岩峰郡は山の県道ぞいの渓谷に幾つも聳え立っている。だから、僕らはこの県道ぞいに車を止めてそこにテントを張るのだが当然、目の前を車がザァーザァー通り過ぎる。山道であるから交通量はしれているがそれでも危ない時もある。
 僕らは夏の暑い盛り、登攀を終えたら冷たいビールを飲もうと、湧き水が勢い良く流れる道路ぞいの排水溝の中に、缶ビールを幾つも冷やしていた。

 ある時、雨が降ったのでこの下水の水量が増していた。それで缶ビールが奥の方へ押し流されたのか、入れたはずの缶ビールが見当たらぬ。「おかしいなぁー?」と言いながら酒飲みの北さんが下水に手を突っ込むがそれでもなかなか見当たらない。そこで「うむー」と彼は唸り、ズルズルズルと下水の中に潜り込み、足だけ出して上半身がすっぽりと下水の中に消えていった。


そしてしばらくうごめくとザァーと蛇のように身体をくねらしながら下水の中からぬけ出た。両手には缶ビールをしっかりと握っている。髪もシャツもびっしょり濡れ、下水の中で目を開けていたのか、閉じた目のまま鼻から水を垂れ流しながら缶ビールを両手に掲げ、よろよろと道路の真ん中へよろつく。すると、
「パパーン」
と車がクラクションを鳴らし、彼は“フランケンシュタインの逆襲”のように車を何台も止め、僕らに押さえつけられたのである。

 この北さんは大変な酒飲みで、ヨーロッパアルプスへ遠征に行った時怪我をして、僕と一緒に入院していたのだが足を骨折して動けぬ彼は僕の病室へ“ジョニ赤(ジョニ黒より安い)を二本買っちきてくれんか”と汚い日本語で書かれた伝言をフランス娘のナースに手渡した。そして、僕らは山間のこの静かな病院で「月が出た、出た」と幾夜も歌った。さらに彼はこの遠征の帰り、あの石膏をぶ厚く巻いた足で、大韓航空機が帰路立ち寄る韓国で遊郭へ遊びに行ったらしい。中野が「北さん、その足でどうやってやったんかい?ちょっと図に画いて説明してもらえんかい」と訳の分からぬ質問をしていた。




2011年12月17日土曜日

ワタの旅と冒険-21(けぶる街並-2)

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ワタの旅と冒険-1


 列車はすべて、ユーレル・パスを使っていたので何に乗ろうが、すべてパスであった。ヨーロッパではコンパートメントの四人部屋が多かったが、薄汚い格好をして髭を生やした訳の分からん東洋人が座っているのだ。皆、遠慮しがちであった。おかげで、かなりゆたっと寝れたが、可愛い娘が入って来てロマンスでも・・・・・・という淡い期待は望めなかった。若い娘が窓ごしに見えると、サッと座席の回りを片付け、澄まして座っているが、娘の方は僕を見ると、ギョッとして隣の部屋へ行ってしまう。
 アムステルダムから同行していた日本人がいたが、有田陶器をやっている人で北欧に三年程、ガラス陶器の修行にやって来ていた、と言い、有田と北欧ガラスの合体したものを創った、とも言っていた。作品を見せてもらったが、初めて見る美しいものであった。有田特有の紅や青の色合いが北欧のスリガラスの中に溶け込み、幻想的な調和をかもしだしていた。僕はその色彩の美しさと、ガラスの透明な質感に打たれ、この作家を真剣に尊敬してしまった。が、しばらく話題がとぎれた後、この尊敬する陶芸家の先生は、目をキラキラさせ黙々とポルノ雑誌をめくっていた。

広場とサイクリスト


 古い街へ幾つも行った。何処もバロック建築らしく教会に似た建造物と紅茶けた瓦で統一されていた。大きな都市には、街の中心に河が流れ、アーチ型のシックな橋が幾つもかかっていた。季節がらであろうか、夕刻になると霧雨がかかり、街全体が、しっとりと濡れぼそり、乳白色にけぶっていた。気に入った街があると、そこに泊った。むろんホテルは高いから泊らない。上品な街は駅も鍵を降ろす。そういう時は大抵、公園で野宿した。浮浪者は居なく、犬も歩かぬ大都会の中、星を数えては眠った。
 ヨーロッパの旅も終わりつつあった。眼の廻るように駆け巡ったE・Cの国々や街々。忙しく長い日々は過ぎ、ヨーロッパは長い冬を向えようとしていた。




2011年12月16日金曜日

ワタの旅と冒険-20(けぶる街並-1)

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ワタの旅と冒険-1

 スカンジナビア半島を一廻りする格好でバルト海を眺め、フィンランドに渡り、ひたすらグレーの空と黄色い針葉樹を眺めながら南下する。風が冷たい。
 コペンハーゲン。古く赤茶けた街並みは街路樹の葉を落とし、淋しい夕暮れを演出していた。歴史の街、深く音の響く石畳のある街。北方の欧州人は固く暗い。気候のせいであろうか南方のスペイン、フランス人とは異なった雰囲気があった。民族の違いであろうか、この辺りの人々には知性と文化性とを感じた。黒いシルクハットを被り、髭を蓄えて道ゆく人々は皆、学者か芸術家のように見えた。

デンマーク門塀

 フランスからドイツに入った時、ガキの顔を見てスラブ民族とゲルマン民族の違いを“ハタ”と感じた。顔が違うのだ。フランス人のガキは太っちょが多く何かボーとした感じがあり、遊ぶ事しか考えてないようであったが、ドイツ人のガキは目や口がキリッと締まり唇が薄く目が精悍である。冗談ばかりと冗談が通じない顔立ちであった。これじゃパリはナチに一日で占領されるのも無理はない。民族性の違いだ、と思った。

 ヴェルッブルブ、アウスブルク、フェッセンとヨーロッパの最も美しいとされるロマンチック街道を花に囲まれ雲に包まれ、青々とした草原の中を通りライン川を行く遊覧船の中、ビールを飲みつつ日光浴をする。陽射しが眩しくゆるやかな風が誘う。何もかもが光に包まれ、うっとりと遊覧船の手すりにもたれかかる。平和な一日だ。公園で子供らが鉄棒をしている。落ち着いた豊かな国、自由な国、それがドイツの印象であった。そういえばヨーロッパを旅しているバックパッカーはドイツ人が多く、彼らは非常にラフな格好をしたインテリゲンチャーであった。また、女の娘らが非常にチャーミングで自由人を思わせる日本女性にはないラフさ、カッコ良さがあった。
 フランクフルトの、百人は入る大ビアホールで泡の盛り上ったジョッキを片手に楽しんでいると、血管の浮き上った赤ら顔の、いかにも元気そうなおっさんが傍へ寄って来て
「お前は、日本人か?昔、日本人と組んで戦争をしたが、あの時きゃイタ公(イタリア人)が居たから負けたが、今度はイタ公抜きでやろうや!」
と、僕に意気巻いていたが、このおっさんイタリア人に何か恨みでもあるのか、イタリア人の悪口ばかり言っていた。確かにイタリア人はヨーロッパでは評判が悪く、欧州人に加えられてない。バックパッカー仲間でも評判は悪く、何でも盗む奴ら、と恐れられている。駅の混雑する中で順番を待って並んで立っていると背中に担いでいるザックをビリビリと切り開き、中の品物を盗んでゆくという。また、イタリアで買い物をすると、お金の代りに、お釣りの分だけアメ玉をくれ、それにイタリア貨幣は三種類もあって、土地によっては通用しないものもあり、それも、ひどいデフレで煙草を買うのに、ぶ厚い紙幣を幾つも用意しなければならない、という。
 このおっさんもビジネス上、イタリア人と何かトラブルでもあったのだろうか、僕にビールをおごり、しきりにイタリア人の悪口を言っていた。そして、昔、あそこまで戦った日本人は偉い、としきりに僕の頭を撫でながら感慨にむせっていた。

 フランクフルトのビアホールに漬かった後、森とクラシックの故郷、サルツブルクへと旅立つ。河と森と紅茶けた瓦はしっとりと濡れ、霧雨の中、僕を魅惑し続けた。
 橋の上、河の辺(ほと)りに立つと何処からか美しいメロディが聞こえてくるようであった。古来の天才たちを生んだのは、この環境であることは間違いなかった。確かに調和のとれた、また精神を落ち着かせる静かな佇みであった。
 後、再び北上するが、ヨーロッパの高いホテル代を避けるため、移動は深夜にて車中で眠るようにした。これも国が遠ければよいが、あまり国境が近寄り過ぎると、一番眠い頃に起こされることになる。国境に差し掛かると、ザァーと黒いコートを着た検査官が乗り込み、「パスポート」「パスポート」と、黒い皮手袋を差し出す。後、荷のチェックをしていくが、僕のザックは汚いのであまり触りたがらなかった。日本人の若い旅行者と同席していたが、車中、偉そうな事ばかり言っていた奴が国境が近づくにつれオタオタしだし、
「俺りゃ ブラックリストに載っているかもしれん。どうしよう。どうしよう」
とか言って何処かへ行ってしまった。




2011年12月12日月曜日

25今どき破天荒な男たちの物語

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今どき破天荒な男たちの物語の1 



 このコアラのようにおとなしい洋ちゃんは山に入ると見事に変身した。じーっと、ドテラを羽織り丸くなってコタツに入りテレビを見ていた男が、突然、強烈なパワーとスピードで登攀する。彼の技量、体力はすさまじく日本人として有数の記録を残している。

 特に氷壁登攀が得意でアイスハンマーで氷を打ち砕いて登ってゆく。何処にこのパワーが潜んでいるのか?と僕らの謎のひとつである。
「洋ちゃんは日頃なるべく動かないようにしてエネルギーを充電してるんじゃないか?」と中野が言っていた。

 その洋ちゃんがもうひとつ変身する時がある。酒を飲んだ時である。
あのおとなしい男が唾(つばき)を飛ばして喋べりまくり、人をつかまえては議論して、絶対自分の意見を譲らない。“ゼロ戦の性能”について中野と議論になり、中野につかみかかったことがある。また、皆んなで花見をした時、かなり飲んだらしく「うぉー」と奇声をあげていた。そしてついに、「おい、山下!お前、俺の目を見たろ!」とか言っているので、こりゃかなりやばいなぁと思っていたらとうとう「うぉー」と膳のテーブルをひっくり返した。皆んな、さっ、と彼から離れるが北さんという先輩が彼をなだめようとしていた。彼も酒飲みである。洋一はついに一升瓶を握ると、「うぉー うぉー」と叫びながら大きく振り出した。と、そこへ、頭を上げた北さんの頭にゴー、ンと一升瓶が当たり、彼は頭を押さえ込んで倒れ込んだ。

ビンが割れなくて良かった。さいわいものである。
僕らの宴会はこのようにすざまじく、いつも怪我人が出ていた。湖畔でやる宴会は水中の大混乱となり、胸までザブッ、ザブッと水に浸りながらつかみ合ってあばれる。焚き火でバーベキュー大会をやれば、またまた大乱闘となり、僕は焚き火の中に突き飛ばされ、髪は焼き縮れ、額には全治二週間のやけどを負い、散々な目にあったことがある。

 街は費用が高いのと、被害総額が大きいので、僕らの宴会はいつも野外で行われていた。
ある雪の積もる頃、宴会をすることになって山奥の、以前から見つけていた、使われてないプレハブの小屋に侵入した。が、そこでも大乱闘となり、「ぎゃぁー」とか叫んで小屋の屋根に飛びついたりしてそれは大変なものであった。翌朝見ると、そのプレハブは散々なものとなり、風がスースーと吹き抜けていた。

 この宴会のすさまじいのは山や特有のようで、宮崎の岩峰の下で毎年、クライマー祭りといって地元の山岳会が主催して開かれる大宴会があるが、これが大変なもので、踊るぐらいなら可愛い方で、一升瓶を握って眼下三百メートルはあろう切り立った崖の上を、「うぉう うぉう」と吠えながらよたる、恐ろしい男も居る。彼らは場が盛り上がると、「よーし 街へ飲みに行くぞ!」と叫んで酔っぱらいの運転する車に乗り込む。ぞろぞろ、乗るは乗るは、トランクに四人、座席に七、八人、人間が折り重なるように乗り込み、窓ガラスに潰され、ぺっちゃんこになった人の顔が幾つも見える。奇術か何か、悪い夢を見ているようである。
恐ろしいことに、このびっしりと重くなった車高の沈んだ普通乗用車は、ずるずるずると街の方へ消えて行った。


この地元のクライマーは猛者ぞろいで、僕らと同じように同年代の仲間が揃っていたが皆、僕らよりだいぶん年上で三十代が多かった。むろん独身ばかりである。彼らの両親がクラブの先輩のリーダーに「器量や頭が悪うでも、なんでもいいから嫁を貰うように言うてもらえんかい」と嘆願していた、という話である。
彼らは土地柄、大変な大酒飲みでそれも焼酎を飲む。僕らが深夜、この岩峰の下の道路に車を乗りつけると彼らが、ざぁーと押し寄せて来て、「一杯やりましょう!」と誘いに来る。
そこで一杯どころか、何杯にもなって大宴会となるのだが、彼らの凄いのは翌朝僕らのテントに来て「おはようございます。向かい酒です。あっちで一緒にやりましょう」とまた誘いに来る。「今日は難しいルートを狙っていたのに・・・飲み過ぎたなぁー」と二日酔いの頭を押さえながら、ビールでもなめるか・・・・と彼らの所へ歩いて行くと、な、なんと、彼らは大きなコッヘルにむらむらと焼酎を波打たせて飲んでいた。

 彼らは朝からこんなに焼酎を飲んで岩を登るつもりだろうか・・・?ふらふらして落ちでもしたらどうするつもりだろう?パートナーも酔っていたら墜落を止めきれまいに・・・と僕の心配をよそに、彼らはガチャガチャと登攀具を付けると「うぃ~っ」とよたりながら岩壁の方へ向かって行った。





ワタの旅と冒険-19(北へ、北へ-3)

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ワタの旅と冒険-1


 さて、僕はストックホルムの良く整理された公園に居る。今日の夕食はパンとチーズ、それにビールの薫りがするビール。芝生の上に寝っ転がって暮れゆく雲を眺めながら、食っていて、ふと見上げると、コートを着て、シルクハットを被った立派なおっさんが立っていた。

スウェーデン露天

「ジャパニーズ?」
と尋ねるので、
「イエス」
と答えれば、急にニヤニヤして僕の隣に座り込み、辺りをキョロキョロ見廻して。人さし指を口に当てると「シィー」と言って立派なビジネスバックのジッパーを開けた。
 中からウィスキーのビンが出てきた。そして、小さいコップを出すと、ドクドクと注ぎ「一杯飲め」と僕にさし出す。僕は気味悪いので断ると、さっ、と自分の口に持ってきて、深く舌づつみを打つと、何杯も注ぎ、ぐいぐい飲みだした。このおっさんもアル中予備軍らしい。
 僕に「日本人サラリーマンの平均所得は幾らだ?」とか「幾らあれば生活できる?」とか、いろいろ尋ねだしたので、大体の数字を並べてやると、「オー低い」とか「プアー」だとか叫んで自分の事のように嘆くと、僕にスウェーデンサラリーマンの経済、生活事情を話して、そういう貧しい国で働かずにスウェーデンに住め、としきりに進めた。そして何を思ったか、皮の大きなサイフの中から、あら!懐かしい聖徳太子を出した。
「これは、スウェーデンのお金にすれば幾らだ?」
と、おっさんが尋ねるので、換算して答えてあげると、サッと僕に一万円札を差し出した。
 僕はてっきり両替をしてくれ、という意味だと思い、
「ノオ」
と答えると、おっさんは
「ウムー ユーア リッチマン(あんた金持ちだ)」
と、唸るように呟き、グットバイをして立ち上った。
 しばらく、ふらふらした足どりで歩くおっさんの背中を眺めていたが、――――しまった!あのおっさんは俺に一万円札をくれる、といって差し出したのか、貰いそこねた!と気づいて残念がるが、後の祭りであった。
 おっさんはスウェーデン人に比べて日本人サラリーマンが格安で働いているので、僕に同情して一万円札をくれようとしたのであろう。また、今の僕の姿は、乞食予備軍に近い姿でもあったが……。

 スウェーデンから一路ノルマンディの国、ノールウェイと向う。此処には中世の海賊の船やイカダで大西洋、太平洋を横断したコンチキ号の博物館がある。
 この国はスウェーデンよりも豊か、と思われる程、街が整い、いたる所に公園があり、郊外へ行けば、各家々は皆、木造のシックな造りで庭の果断は数々の花で色どられていた。落ち着いた雰囲気のある国である。行き交う人々は皆、ぴしゃっと背広を着て背筋を伸ばし、髭をたくわえた大男が多い。かつて、大海を支配して暴れ廻った海賊の子孫は立派なジェントルマンになっていた。
 シックな博物館を見終ると、この整い過ぎて味気のない街を後に北へ、北へと向った。
 列車は北海のリアス式海岸を走る。窓には黄色い針葉樹ばかり目についた。雲が多く、どんよりとした天候である。霧雨が降っていた。
 この地方は晴天の日が少ない。
 滑らかな花崗岩の岩峰ばかり目についた。標高差もある立派な岩壁である。ルートを目で追いながら日本にこういう岩壁が有ったらなぁ、と幾つも通り過ぎる岩峰郡に目をやるが、この素晴らしい岩壁もこの地特有の雨や雷の多い気候で訪れるクライマーも少ないらしい。

セロトーレ

 長らく海が見えたり岩峰が見えたりしていたが、ボーデーという駅で乗客が皆んな降りて行くので、おかしいなぁ?まだ終点ではないはずなのに……と思いながら乗客と一緒に列車を降りると、海岸に百トン位の小さい船が待っていた。船と言ってもポンポン船である。この船に乗り込むと汽車の次は船の旅となる。
 フィヨルドの内海は静かで滑らかであった。波はない。風に吹かれデッキに立つと、どんよりとした雲の下、海面から岩峰が幾つお聳え立っていた。マッターホルンやドリューのような形をしたものもある。対岸は黄一色針葉樹で埋めつくされていた。
 風は冷たいが快ち良く、「いよいよ、地の果てが近いぞ」と、何か感動を覚え身を震わせた。

 波止場には別の船で到着したらしい列車が待っていた。こうして鉄道と船とを乗り継ぎ、最北端の街、ナルビックへと降り立つ。
 ヨーロッパで知り合った日本人が言っていたが、ナルビックの公衆便所に日本語で“千九百何年一月一日、我、ナルビックに到着せり”と書いてあったというが、一月といえば昼の全くない氷と闇の世界だ。よくぞ訪れたものである。
 とにかく、日本人の根性は大したもので、いたるところに形跡を残しているが、六十年安保で挫折した人間がやけくそで行ったものとしか思えなかった。
 そういえば、やはりヨーロッパで知り合った奴であったが、アフガニスタンで強盗に襲われ、殺されかかったので、靴紐で強盗の首を締めて殺してきた、と言っていた。アラブで人が死のうが生きようが、事件にはならぬが、正当防衛とはいえ、やるもんである。

家と白い山

ナルビックは冷たい街であった。雪が多く積るのか、塔のようになっている建物が多く屋根は鋭角になっていた。河も海も鏡のように固く見えた。子供らが白い息を吐いて元気良く遊んでいた。すべてシックに見える灰色の空の下、白い白い街であった。

 時折、日本人に似た人を見かけるが、モンゴル系であろうか。この、ずっと先の北極海側の対岸にフィン人というモンゴル系の少数民族が住んでいる、という。大昔、モンゴルから大陸を越えて来たのか、それともアラスカから北極の氷原を越えて渡って来たのか、また、モンゴルから大陸を真っすぐ北上して北極圏へ出て氷原を越え、一部はアラスカ一部はこの地へ辿り着いたのか、いずれにしても彼らの行動はすさまじいものがある。アメリカインデアンも元はモンゴル人、という。

 モンゴル人のような顔をして街をうろつくが、人通りが少なく薄着の元気の良い子供たちが走り廻っているだけの閑散とした淋しい街である。冬に近づいていた。白夜から夜ばかりの闇の世界へ近づいていた。午後三時を廻ったところだが、辺りはもう薄暗くなりかけていた。昼が非常に短く人々も冬支度をしている頃である。

船

 宿を探そうとするが、さすがに高い。まぁ山で寝る思いをすりゃ何てことはないと、海岸の荒地に土管があったので潜り込む事にするが、さすがに寒い。山の寒さも厳しいが、此処のは寒いのじゃない、空気そのものが冷たいのだ。息をすると吸い込む息が冷え冷えとして、肺に冷気が染み渡り肺が凍りつくようで寒くて眠れない。土管の中から「おぉー寒い寒い」と、夜の開けかけた海を眺めると、北の海はグレーであった。白々とした空に海鳥が淋しく鳴きながら飛んでいた。まさに最北の海である。この先は氷海だ。思い雲がどんよりと空を覆っていた。
「あぁ、もう帰りたくなったなぁ」
明日もこんな寒い思いをして寝るのは堪えられなかった。それにオーロラは今時期、出にくい、という。
「よし!帰ろう。ミューヘンでビアホールだ」
と、いつものワン・パターンで再びビールを求めて南下する事にした。




2011年12月2日金曜日

24今どき破天荒な男たちの物語

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今どき破天荒な男たちの物語の1 



 この山下、ヨーロッパに渡り在欧の中野とパーティーを組み、アルプスの峰々に挑むわけだが、中野が例のように汚くテント内を散らかし、汚れたパンツをぽんぽん投げ捨て、あげくのはてにテント場をうろうろしていた、山下に言わせれば「臭くて堪らぬヒッピーのような日本人娘」をテントに連れ込んだ。そして、ついに山下はテントを出て、別の日本人パーティーのテントに居候することになった。「夜な夜な、隣であんな声聞かされちゃぁ睡眠不足になる」と言うことであった。

狭い二人用のテントに住み着く女も女だが、他人がすぐ隣に居るのに、遠慮もなく事を行う中野とその女の神経がよう分からん。
 こうして、ぶりぶり言って帰国した山下は「中野は当分日本に帰る意思も金もない」と吐き捨てるように言った。

 僕らはその山下の経営する喫茶“スイスシャレー”へよくたむろするのであるが、落ち着きのない三郎はマンガを読み終わると、僕に「おい、飯食いに行こう!」と誘う。飯を食いに行こうって、友だちの喫茶店に居るのに此処で食えばいいじゃないかと言うと「俺りゃ、同じ所にじっとするのが嫌なんじゃ」と半ば投げやりに言い、また一時(いっとき)して、「おい!コーヒー飲みに行こう」と誘う。僕は何も言わずに雑誌をめくる。落ち着きのない奴め!店に入ってまだ三十分も経ってないじゃないか。

 彼は同じ場所に居て、ある限界が過ぎると貧乏揺すりをしだす。そして何処の店に入っても、さっ、とマンガ本を握る。また山行の列車の中では、ぶ厚い少女漫画を買ってきては一生懸命読んでいる。僕が車窓にもたれかかり缶ビールを飲みながら、流れる風景を眺めぼんやり旅情に浸っていると、三郎がさも同情するような顔をして「おい、読むか?」と言ってぶ厚い少女漫画をバリバリと二つにちぎり僕に差し出す。
「俺はそんなものは読まん」と言うと
「そうか?」「でも退屈やろうー」
と再び、ぼぉーと良い気分でいる僕に同情の目を向ける。

 また、僕らはよく二人で船乗りの洋一のアパートへ彼を誘いに行った。天気の良い日曜日である。山へ行かぬ時は何処かへ遊びに行こうというわけである。が、彼の部屋は薄暗く、彼はコタツに入り丸くなってテレビを見ている。三郎がバタバタと部屋へ入り
「おい!今日は天気がいいぞ、こんなところに居ると腐ってしまうぞ!」と怒鳴るように言うと
「俺は此処でテレビの番をせにゃいかんのじゃ!」とコタツの中で身じろぎもせず洋一が答える。
「えーい!盛り上がりの欠ける奴じゃ!」と、投げ捨てるように三郎が言い返す。

 洋一は日頃はおとなしく温和な男である。あまり動かず
「おい!久しぶりに外へ出ろうと思うんじゃが、世間の人達はどんな格好して歩いとるかのぉ。セーター着て出たらおかしいかのぉー」と尋ねる。
彼は若い頃から船に乗り、休暇の時は山か六畳、四畳半二間のこの部屋に居る。中野の例の居候の後、彼は船に乗るので長らく留守にするこのアパートに幾つも鍵を掛けていた。見送りの時、僕が「おい、洋ちゃん 中野がお前の留守の間にこの部屋に忍び込んで住もうとか言ってたぜ。それか、万国旗やビラビラしたのをいっぱい貼ってモーテル部屋にしたら儲かるなぁーとも言っとったぜ」と脅かすと洋一はこの世の終わりのような暗い顔をした。