それなら何故、最初に言わないのか?フィルムの現像などはしないのに・・・と、彼は腹を立てていたのである。
おそらく中野は、食事券が売れなくて余ったあげくの考えであろうが、見え見えの策略である。
その後、僕は二度目に買わされた食事券のリザーブを取ろうとホテルへ電話した。この時はもう、誰も事前には誘わなかった。何度かホテルへ電話するが、「休んでます」というフロント嬢の声であった。その後、幾度か電話するが、「居ない」という。だんだんフロント嬢の声が険悪になってくる。「どうしたんだろう・・・?やめたのかな?」と心配した僕は、情報通の歯科技工師の三郎の所へ行って尋ねてみると、他のホテルへ替わったという。そこも別府では大きい方のホテルであった。
ははーん、引き抜かれたな・・・おそらく少しでも条件が良かったんだろう。そこで前の得意先と企業秘密をごっそり持って行ったに違いない。
あれ程、入社する時に、「わしのような男を気に入ってくれて・・・」と恩義を感じていたのに何て奴だ。フロント嬢の「休んでます!」という嫌悪の声が耳に響いてくるようであった。
さっそく新しいホテルへ電話すると、もうそこで何十年も働いているかのような声を出して、忙しそうに応対に出る中野が居た。
「はいはい、中野です」
「おい!お前、何時替わった?」
「この間や」
「向こうに電話したら『休んでます』って言っとったぜ」
「ははは、そうかい」
「お前、やめるって言ってないのか?」
「ああ。でも、わしが此処に居るの知っとるぜ」
「そりゃ、客を横取りされりゃ分かるわ!」
「ははは、それもそうやな」
「お前、給与は幾ら高かった?五千円か、一万円か?」
「いやぁ、給与はあまり変わらんが交通費が出るからなぁ」
「交通費って言っても一万ぐらいやろ。たかが一万円でお客をごっそり取られ、企業秘密まで持って行かれちゃあのホテルも堪らんなぁ」
「あはは」
「お前じゃなかったかなぁ・・・?人間は誰でも、しばらく一緒に居ると情が移るとか人間が犬や猫と違うのは情があるからや、とか偉そうなこと言っとったのは・・・お前は犬や猫か?」
「あははは」
僕はもう、これ以上は何も言わなかった。彼はやはりアラブ人みたいな奴であった。別に彼を批判するつもりはないが、中野のような人間は、これからの日本人に必要な根性ではあると思った。
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